高校の頃は、「社会や英語、国語が好き」→文系
「理科や数学が好き」→理系
という話が周りで行われていたし、
大学に入学したての頃も、サークルの勧誘活動とかではきまって、文系か理系か、とか、学部はどうとか、っていう話が多かったですけれども、
自分はこういう手の話はすきじゃなかった。
血液型性格診断とかもそう。
別に「血液型が四種類しかないのに、人間を四種類に分類できるのか!」みたいな論をふりかざすわけじゃないけど(というか、この論理には飛躍があって、例えば都道府県、血液型、性別…などの幾つかの要素(10個ぐらい?)を引っ張ってきて、それを掛け合わせたら日本人の数くらいは場合分けができるんじゃないか、と思っているから、この話をする人は、思慮が浅いのかな、とは思っている)、
文理や学部、血液型というフィルターを通して「しか」物事を見れなく(切り取れなく)なってしまうことに、恐怖を抱いていた。
もちろん、初めて話す人とかだと、そういう「差し障りのない話」から入っていくのが良いんだろうけど、
自分の場合、25年くらい生きてきた中でいろいろと考えて選択して行動してきて、そこには何かしらの考えとか哲学があるわけで、
そういうのを含めて、自分の考えはとても1000文字にまとめられるようなものではないし(まあ、やってみたことないからできるかもしれないんだけど)、生きた年数が増えると、自分の人生を説明するコンテンツも増えてくるから、心の底から相手のことをわかり合えるのなんて到底無理だ(できるとしても、すごく時間がかかる)くらいに、「あきらめる」ようになった。
だから、もうあまり、新しい出会いは(量的には)求めていない(コミュニケーション取るのがめんどくさいw)。
ただ一方で、人間ってこういう生き物だから、終生のパートナーに出会えるのかな、とも思う。
自分の場合、自分に興味を持っている人なんて相当の物好きとしか思っていないけど(笑)、
それはそれで嬉しいな。
高校や大学の時って正直、見える世界が狭いし付き合う人間(の価値観)も狭いから、恋愛とかでも、どうしても対抗意識とか芽生えてしまうし(その上で勝てない場合が多かったけど笑)、今思うと、ちんけな世界だったな、というか、自分には向いていなかったな、と思う。
なんだかタイトルとずれてしまっているけれど。
話を戻すと、一般的な「文理フィルター」は嫌いだけれど、自分の場合、文系理系は次のように違いがあると思っている。
文系=人(が作り出す世界)に興味がある
理系=モノ(が作り出す世界)に興味がある
これ。
例えば、特許翻訳に出てくる分子とか粘弾性、遺伝子の話とかは、理系的な色が強い。
大学の学部で言うと、経営学には消費者心理や行動心理が関わっているし、企業のマネジメントも「人を動かす」色が強い。教育とかも、人と関わる。
工学や理学、農学系で、バリバリに実験をしたり計算をする、というのは、人ではなくてモノに関わる要素が強い。
言語学に関して言うと、「人と関わるのが好き」という動機の人は文系と言えるけど、「言葉の構造や文法に興味がある」というのであれば、理系と言えるんじゃないだろうか。
(ちなみに自分の場合、後者が好き。それに、ヨーロッパ系の言語で主語や人称、時制によって単語の形が変わるというのは、y=axの関数に似ているから、言語学ってぶっちゃけ、理系的な側面が強いと思っている)
そういう意味では、歴史人物が好きならば文系といえるし、ノーベル賞の内容よりも、受賞者の考えに興味があるのであれば、理系というよりは文系的といえるんじゃないか。
(というか、きっかけは人であっても、そこから学術的成果に興味を持てるのであれば、十分に「ハイブリッド」とも言える)
将棋で言うと、盤上の純粋な戦い(定跡研究、駒組み、最終版の寄せ合い)は理系的といえるし、棋士が繰り広げた名勝負が好きならば、文系的とも言える(自分はどちらかといえば後者。新戦法を開発した棋士の思想を垣間見るのが好き…ってあれ、これって特許思想をくみ取る部分と似ているんじゃ…)
ちなみに、かの巨匠大山康晴の「人間は必ず間違える生き物(だから、ミスをしやすい局面に誘導する)」という勝負哲学に、影響をとても受けた。
自分の場合、「言語は思考を規定する」という信条があるので、世間的で使われているフレームワークやテンプレートに染まると、考え方やとっかかりの付け方が多数派と同じになってしまうんじゃないか、という恐怖感があって、なるべくそういうものに乗らないようにしている。
「理科や数学が好き」→理系
という話が周りで行われていたし、
大学に入学したての頃も、サークルの勧誘活動とかではきまって、文系か理系か、とか、学部はどうとか、っていう話が多かったですけれども、
自分はこういう手の話はすきじゃなかった。
血液型性格診断とかもそう。
別に「血液型が四種類しかないのに、人間を四種類に分類できるのか!」みたいな論をふりかざすわけじゃないけど(というか、この論理には飛躍があって、例えば都道府県、血液型、性別…などの幾つかの要素(10個ぐらい?)を引っ張ってきて、それを掛け合わせたら日本人の数くらいは場合分けができるんじゃないか、と思っているから、この話をする人は、思慮が浅いのかな、とは思っている)、
文理や学部、血液型というフィルターを通して「しか」物事を見れなく(切り取れなく)なってしまうことに、恐怖を抱いていた。
もちろん、初めて話す人とかだと、そういう「差し障りのない話」から入っていくのが良いんだろうけど、
自分の場合、25年くらい生きてきた中でいろいろと考えて選択して行動してきて、そこには何かしらの考えとか哲学があるわけで、
そういうのを含めて、自分の考えはとても1000文字にまとめられるようなものではないし(まあ、やってみたことないからできるかもしれないんだけど)、生きた年数が増えると、自分の人生を説明するコンテンツも増えてくるから、心の底から相手のことをわかり合えるのなんて到底無理だ(できるとしても、すごく時間がかかる)くらいに、「あきらめる」ようになった。
だから、もうあまり、新しい出会いは(量的には)求めていない(コミュニケーション取るのがめんどくさいw)。
ただ一方で、人間ってこういう生き物だから、終生のパートナーに出会えるのかな、とも思う。
自分の場合、自分に興味を持っている人なんて相当の物好きとしか思っていないけど(笑)、
それはそれで嬉しいな。
高校や大学の時って正直、見える世界が狭いし付き合う人間(の価値観)も狭いから、恋愛とかでも、どうしても対抗意識とか芽生えてしまうし(その上で勝てない場合が多かったけど笑)、今思うと、ちんけな世界だったな、というか、自分には向いていなかったな、と思う。
なんだかタイトルとずれてしまっているけれど。
話を戻すと、一般的な「文理フィルター」は嫌いだけれど、自分の場合、文系理系は次のように違いがあると思っている。
文系=人(が作り出す世界)に興味がある
理系=モノ(が作り出す世界)に興味がある
これ。
例えば、特許翻訳に出てくる分子とか粘弾性、遺伝子の話とかは、理系的な色が強い。
大学の学部で言うと、経営学には消費者心理や行動心理が関わっているし、企業のマネジメントも「人を動かす」色が強い。教育とかも、人と関わる。
工学や理学、農学系で、バリバリに実験をしたり計算をする、というのは、人ではなくてモノに関わる要素が強い。
言語学に関して言うと、「人と関わるのが好き」という動機の人は文系と言えるけど、「言葉の構造や文法に興味がある」というのであれば、理系と言えるんじゃないだろうか。
(ちなみに自分の場合、後者が好き。それに、ヨーロッパ系の言語で主語や人称、時制によって単語の形が変わるというのは、y=axの関数に似ているから、言語学ってぶっちゃけ、理系的な側面が強いと思っている)
そういう意味では、歴史人物が好きならば文系といえるし、ノーベル賞の内容よりも、受賞者の考えに興味があるのであれば、理系というよりは文系的といえるんじゃないか。
(というか、きっかけは人であっても、そこから学術的成果に興味を持てるのであれば、十分に「ハイブリッド」とも言える)
将棋で言うと、盤上の純粋な戦い(定跡研究、駒組み、最終版の寄せ合い)は理系的といえるし、棋士が繰り広げた名勝負が好きならば、文系的とも言える(自分はどちらかといえば後者。新戦法を開発した棋士の思想を垣間見るのが好き…ってあれ、これって特許思想をくみ取る部分と似ているんじゃ…)
ちなみに、かの巨匠大山康晴の「人間は必ず間違える生き物(だから、ミスをしやすい局面に誘導する)」という勝負哲学に、影響をとても受けた。
自分の場合、「言語は思考を規定する」という信条があるので、世間的で使われているフレームワークやテンプレートに染まると、考え方やとっかかりの付け方が多数派と同じになってしまうんじゃないか、という恐怖感があって、なるべくそういうものに乗らないようにしている。
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