人間というのは、自分で自分の可能性を制限してしまう生き物だし、他人にすら、自分の可能性を制限されてしまう生き物である。
例えば、「自分は文系だから」「自分は理系だから」という勝手な?洗脳で、時には進路すらもある程度限定してしまうことがあるし、本当はできるかもしれない、素質があるかもしれないのに、「数学が苦手」だったり「国語が苦手」な状態で、年を重ねてしまう。
(もしくは、「自分はこれが好きだから」という理由で選択をして、興味のない世界は一瞥することもなく今生の別れとなってしまうことだってある)
あるいは、「君は頭が優秀だから、●●高校に行って■■大学に進んだほうがいいよ」なんてことを、三者面談で言われたり、幼い頃から親にそれとなく言われるようなこともあるだろうし、そういう経験を通して「そうか、自分は将来、こんな風になるのか…」という、あらぬ洗脳を受けてしまうことだってあるだろう。
かくいう自分は、中学生の頃は周りから「●●高校に行くんだよね」と言われたことが、高校選びの割と大きな要因だったし、「大学では言語学を学びたいなあ」という気持ちが強くて、更に進学もした。
いわば、知らぬ間に周りから、そして自分自身ででも、自分の興味や関心、果ては進路までもを限定してしまっていたわけだ。
さて、そんな自分だったが、今はむしろ、「自分の興味や関心を限定しない」ということが、少しはできるようになった。いわば、少しだけ視野狭窄が解消されて、講座で言われているような「トランスフォーメーション」もかけやすくなっている、と自分では思っている。
で、そのきっかけはなんだったかと言うと、独立した最初の頃に、ある仕事を任せられたのがきっかけだった。
自分が独立した経緯は、時を改めて書ければと思うが、
それまでの自分のスキルや、時間を割いてきたことの棚卸しをざっとしたときに、
「とりあえず翻訳で食っていこう」と決めて、細々と仕事をしていた。
(この講座に出会ったのは、もうちょっと後で、この頃は実入りが相当苦しかった)
そんな折に、大学時代の友人から電話がかかってきて、
彼の父親が、ちょっとした会社のエラい役職についておられるのだけど、
その人から仕事の相談があるので、電話で詳しいことを聞いて欲しい、
ということだった。
それはどういう仕事だったかというと、
新たに始める事業のSNSプロモーションをやって欲しい、というものだった。
自分は学生の時にTwitterをやり始めたのだけれど、
開始当初から、自分の意見や考えを発信して、Twitterではそこそこフォロワーがいた。
そのフォロワーの中に、どうやら彼の父親が混じっていたらしく、
「今回の仕事はあいつに任せてみよう」という話になったらしい。
仕事的には、新たに始まる事業をFacebookとTwitterを使ってプロモーションをしつつ、
メディアを育てていくことを主眼に置いて欲しい、というものだった。
当時、自分が驚いたのは、「なんで自分に声がかかるのか?」ということだった。
というのも、自分より影響力のあるTwitterのユーザーなんてごまんといるし、
Facebookのページ運営も、ノウハウと実績が沢山ある人も同じくごまんといるだろう。
その中で、なんで自分に?と、何度も思ったのだ。
これは恐らく、向こうの予算の関係と、あとは「こいつ面白そうだ」と目を付けてもらったのか、なんなのかは分からないけれど、そういう要因があったのではないかと思う。
で、この仕事は一月いくらで、半年間にわたって続いた仕事だったのだけれど、
一番驚いたのは、「これが仕事になるのか」ということだった。
当時、それまでTwitterを使ってマネタイズをしたことはなかったし、まさかできるとも思っていなかった。(考えてもみなかった)
Facebookページの作成やプロモーション用のコピー作成なんかも、ほぼやったことがなかったので、当然仕事をする中で勉強漬け。
ただ、一番の気づきは、「自分はなんとも思っていないものでも、他人から見たら価値があるものになる」ということだった。
要するに、自分にとって、Twitterが使えるとか、Facebookが使えるとか、そういうことは「呼吸をするくらいに当たり前のこと」になっていて、「空気のように価格は無料」のスキルだと思っていたのだけれど、
別の人にとっては、「お金を払いたくなる」価値があるものだった。
という「差」になっていたのだ。
ここで、「自分の可能性を限定しない」という冒頭の話に戻るのだけれど、
「自分で自分を見たときに、価値を持つように思えるものというのは、ものすごくバイアスがかかっている」ということそのものが、他でもない「可能性の限定」に繋がってしまうと思うのだ。
だって、そういうバイアスがかかっていると、他人から見ると「価値がある」ことに自分は気づかないから、その良さを伸ばすことは未来永劫できないわけだし、
逆に、他人から見ると価値はないのに、自分では価値があると思い込んでしまって、間違った努力をしてしまうことにもなりかねない。
だからこそ、この時の経験で「Twitterを使えることがお金に替わるという可能性」を、身をもって知ることができたことは、得た収入以上に価値があると、今では思っている。
そういうワケで、実はあまり、自分がやれること、できること、興味があることは限定したくない、と考えている。
(し、表面的には全く別のことでも、本質的な話は大変にていることもあるし、そういう「意外性」に気づけるときが、脳が刺激されて楽しいのである)
例えば、「自分は文系だから」「自分は理系だから」という勝手な?洗脳で、時には進路すらもある程度限定してしまうことがあるし、本当はできるかもしれない、素質があるかもしれないのに、「数学が苦手」だったり「国語が苦手」な状態で、年を重ねてしまう。
(もしくは、「自分はこれが好きだから」という理由で選択をして、興味のない世界は一瞥することもなく今生の別れとなってしまうことだってある)
あるいは、「君は頭が優秀だから、●●高校に行って■■大学に進んだほうがいいよ」なんてことを、三者面談で言われたり、幼い頃から親にそれとなく言われるようなこともあるだろうし、そういう経験を通して「そうか、自分は将来、こんな風になるのか…」という、あらぬ洗脳を受けてしまうことだってあるだろう。
かくいう自分は、中学生の頃は周りから「●●高校に行くんだよね」と言われたことが、高校選びの割と大きな要因だったし、「大学では言語学を学びたいなあ」という気持ちが強くて、更に進学もした。
いわば、知らぬ間に周りから、そして自分自身ででも、自分の興味や関心、果ては進路までもを限定してしまっていたわけだ。
さて、そんな自分だったが、今はむしろ、「自分の興味や関心を限定しない」ということが、少しはできるようになった。いわば、少しだけ視野狭窄が解消されて、講座で言われているような「トランスフォーメーション」もかけやすくなっている、と自分では思っている。
で、そのきっかけはなんだったかと言うと、独立した最初の頃に、ある仕事を任せられたのがきっかけだった。
自分が独立した経緯は、時を改めて書ければと思うが、
それまでの自分のスキルや、時間を割いてきたことの棚卸しをざっとしたときに、
「とりあえず翻訳で食っていこう」と決めて、細々と仕事をしていた。
(この講座に出会ったのは、もうちょっと後で、この頃は実入りが相当苦しかった)
そんな折に、大学時代の友人から電話がかかってきて、
彼の父親が、ちょっとした会社のエラい役職についておられるのだけど、
その人から仕事の相談があるので、電話で詳しいことを聞いて欲しい、
ということだった。
それはどういう仕事だったかというと、
新たに始める事業のSNSプロモーションをやって欲しい、というものだった。
自分は学生の時にTwitterをやり始めたのだけれど、
開始当初から、自分の意見や考えを発信して、Twitterではそこそこフォロワーがいた。
そのフォロワーの中に、どうやら彼の父親が混じっていたらしく、
「今回の仕事はあいつに任せてみよう」という話になったらしい。
仕事的には、新たに始まる事業をFacebookとTwitterを使ってプロモーションをしつつ、
メディアを育てていくことを主眼に置いて欲しい、というものだった。
当時、自分が驚いたのは、「なんで自分に声がかかるのか?」ということだった。
というのも、自分より影響力のあるTwitterのユーザーなんてごまんといるし、
Facebookのページ運営も、ノウハウと実績が沢山ある人も同じくごまんといるだろう。
その中で、なんで自分に?と、何度も思ったのだ。
これは恐らく、向こうの予算の関係と、あとは「こいつ面白そうだ」と目を付けてもらったのか、なんなのかは分からないけれど、そういう要因があったのではないかと思う。
で、この仕事は一月いくらで、半年間にわたって続いた仕事だったのだけれど、
一番驚いたのは、「これが仕事になるのか」ということだった。
当時、それまでTwitterを使ってマネタイズをしたことはなかったし、まさかできるとも思っていなかった。(考えてもみなかった)
Facebookページの作成やプロモーション用のコピー作成なんかも、ほぼやったことがなかったので、当然仕事をする中で勉強漬け。
ただ、一番の気づきは、「自分はなんとも思っていないものでも、他人から見たら価値があるものになる」ということだった。
要するに、自分にとって、Twitterが使えるとか、Facebookが使えるとか、そういうことは「呼吸をするくらいに当たり前のこと」になっていて、「空気のように価格は無料」のスキルだと思っていたのだけれど、
別の人にとっては、「お金を払いたくなる」価値があるものだった。
という「差」になっていたのだ。
ここで、「自分の可能性を限定しない」という冒頭の話に戻るのだけれど、
「自分で自分を見たときに、価値を持つように思えるものというのは、ものすごくバイアスがかかっている」ということそのものが、他でもない「可能性の限定」に繋がってしまうと思うのだ。
だって、そういうバイアスがかかっていると、他人から見ると「価値がある」ことに自分は気づかないから、その良さを伸ばすことは未来永劫できないわけだし、
逆に、他人から見ると価値はないのに、自分では価値があると思い込んでしまって、間違った努力をしてしまうことにもなりかねない。
だからこそ、この時の経験で「Twitterを使えることがお金に替わるという可能性」を、身をもって知ることができたことは、得た収入以上に価値があると、今では思っている。
そういうワケで、実はあまり、自分がやれること、できること、興味があることは限定したくない、と考えている。
(し、表面的には全く別のことでも、本質的な話は大変にていることもあるし、そういう「意外性」に気づけるときが、脳が刺激されて楽しいのである)
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