翻訳で一番必要な力は「コンテクスト理解力」というのは1つの意見で、
それはもちろん必要な力なんですけれど、
この「コンテクスト理解力」って、人生的に考えてみるとかえって邪魔なこともありますよね。
例えば、
「お医者さんになりたいから医学部に進む」とか
「弁護士になりたいから司法試験を受ける」とか
「有名企業に入りたいから有名な大学に進む」とか
自分の人生で、人によっては物心ついたときから
「将来はこうなりたいから、こういうプロセスを経て…」とか
「昔こういうのに興味があったから、これを選んで…」とか
必ず、物事の判断には「コンテクスト」があるわけですよね。
こういう風に、自分の人生にコンテクストを加えて、考えて選択をするって
非常に大事なわけなんですけれど、
その「コンテクスト」が破綻してしまうと、まずいわけですよね。
例えば「有名大学に行っても大企業にいけるわけではない」とか
「有名企業に入っても一生安泰なわけではない」とか
あるいは、医学部に進んだけれど、別のことに興味を持って自分の進路に悩むとか。
世の中的に、共有されていた「コンテクスト」が通用しなくなることもあれば、
人生なんてある意味流転的なものだから、時の経過と共に自分の興味関心が変わることもあるわけで。
そういう時に、今まで考えていたこと=自分のコンテクストを意識してしまって、細かい軌道修正ができなくなってしまうことも、「コンテクスト理解」をすることによる一面としてあるんじゃないかな、と。
将棋をやっていると、指し始めから終局までは当然、自分なりの構想があって読みがあるので、
玉はこういう風に囲おう、とか
攻め駒はこう配置しよう、とか
ここから相手の陣形を突破していこう
っていう考えと共に、一局の中でも「コンテクスト」が生まれてくる。
ただ、このコンテクストがあるからこそ、ミスもするし逆転も起こる。
自分が有利になったら、「こういう流れて有利になったから」というコンテクストが邪魔をして
安全に安全に指そうとして、相手の勝負手を食らって逆転してしまう、ということもある。
将棋には、これとは別に、いきなり途中の局面を見て「次の一手」を考えることもあるけれど、
これは、コンテクストが自分の中にないからこそ、指し手を考えるのが難しい、という一面がある一方で、
コンテクストがないからこそ、先入観なく読みを入れることができる、という一面もあるわけで。
だから、コンテクスト理解・コンテクスト把握って大事な一方で、場合によっては障害物となってしまう場合もある。
「人間には、突然何かを始める権利があって、それが人間が自由であるという本当の意味だ」というようなこと言ったのはハンナアーレントのようですが
(この話を聞いたのは、和佐木坂ラジオでしたけど)
ある意味、人間が人間である所以は、大きな文脈の中でも「コンテクストを無視できること」にあるんじゃないか、と思う。
だから、「意外性」とかがウケの対象になるわけで。
このあたり、人工知能の仕組みはどういう風になっているのかな、と思う。
(将棋に関して言うと、人間が「こういう手はない」という指し手を平気で指せるので、恐らくコンテクストは関係なく、物事を「点」で捉えて、その場での最適解を出す、という仕組みになっているのだと思うけど)
だから、人工知能がもっと普及すると、意外性が高いことが起こらなくなってしまうのかなあ、と思ったけれど、よく考えてみたら、人間が読みもしない手を指す将棋ソフトは、それ自体がある意味「意外性」なので、単純につまらない、というわけでもないのかな。
それはもちろん必要な力なんですけれど、
この「コンテクスト理解力」って、人生的に考えてみるとかえって邪魔なこともありますよね。
例えば、
「お医者さんになりたいから医学部に進む」とか
「弁護士になりたいから司法試験を受ける」とか
「有名企業に入りたいから有名な大学に進む」とか
自分の人生で、人によっては物心ついたときから
「将来はこうなりたいから、こういうプロセスを経て…」とか
「昔こういうのに興味があったから、これを選んで…」とか
必ず、物事の判断には「コンテクスト」があるわけですよね。
こういう風に、自分の人生にコンテクストを加えて、考えて選択をするって
非常に大事なわけなんですけれど、
その「コンテクスト」が破綻してしまうと、まずいわけですよね。
例えば「有名大学に行っても大企業にいけるわけではない」とか
「有名企業に入っても一生安泰なわけではない」とか
あるいは、医学部に進んだけれど、別のことに興味を持って自分の進路に悩むとか。
世の中的に、共有されていた「コンテクスト」が通用しなくなることもあれば、
人生なんてある意味流転的なものだから、時の経過と共に自分の興味関心が変わることもあるわけで。
そういう時に、今まで考えていたこと=自分のコンテクストを意識してしまって、細かい軌道修正ができなくなってしまうことも、「コンテクスト理解」をすることによる一面としてあるんじゃないかな、と。
将棋をやっていると、指し始めから終局までは当然、自分なりの構想があって読みがあるので、
玉はこういう風に囲おう、とか
攻め駒はこう配置しよう、とか
ここから相手の陣形を突破していこう
っていう考えと共に、一局の中でも「コンテクスト」が生まれてくる。
ただ、このコンテクストがあるからこそ、ミスもするし逆転も起こる。
自分が有利になったら、「こういう流れて有利になったから」というコンテクストが邪魔をして
安全に安全に指そうとして、相手の勝負手を食らって逆転してしまう、ということもある。
将棋には、これとは別に、いきなり途中の局面を見て「次の一手」を考えることもあるけれど、
これは、コンテクストが自分の中にないからこそ、指し手を考えるのが難しい、という一面がある一方で、
コンテクストがないからこそ、先入観なく読みを入れることができる、という一面もあるわけで。
だから、コンテクスト理解・コンテクスト把握って大事な一方で、場合によっては障害物となってしまう場合もある。
「人間には、突然何かを始める権利があって、それが人間が自由であるという本当の意味だ」というようなこと言ったのはハンナアーレントのようですが
(この話を聞いたのは、和佐木坂ラジオでしたけど)
ある意味、人間が人間である所以は、大きな文脈の中でも「コンテクストを無視できること」にあるんじゃないか、と思う。
だから、「意外性」とかがウケの対象になるわけで。
このあたり、人工知能の仕組みはどういう風になっているのかな、と思う。
(将棋に関して言うと、人間が「こういう手はない」という指し手を平気で指せるので、恐らくコンテクストは関係なく、物事を「点」で捉えて、その場での最適解を出す、という仕組みになっているのだと思うけど)
だから、人工知能がもっと普及すると、意外性が高いことが起こらなくなってしまうのかなあ、と思ったけれど、よく考えてみたら、人間が読みもしない手を指す将棋ソフトは、それ自体がある意味「意外性」なので、単純につまらない、というわけでもないのかな。
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